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思い込み見てある記ーイタリア編

ミラノ、スフォルツァ城のミケランジェロのピエタ              2000年秋

 この「哀しさ」は何処からくるのだろうか?

 ミラノのスフォルツァ城にある、ミケランジェロの「ピエタ」。
彼の最後の作品として有名で、見たことのある人も多いだろうと思う。
この作品を見た、殆ど全ての人が、「悲しさ」「哀しさ」「寂しさ」を感じるのだと思う。
今、この像を見ている人の何人かは、現実に「涙している」のだ。

 どうしてだろうか?
私は、「ミケランジェロが大きな哀しさを感じていたから。」なのではないかと思う。
キリストの右手の傍に、この像の大きさの1.3倍くらいはあろうかという「右手」が彫り残されている。

 これは、何だろう?
当然、彼がこの像を彫る前に、この石に彫ったものだろう・・。
何故、その像を潰してまで、現在ある像を彫ったのか?

 「ミケランジェロが自分の彫ったものが気に入らず、彫りなおした。」としか思えないから、何がそんなに気に入らなかったのか?と言う事になる。

 それは、この像を彫ったとき、かなりの高齢になっていた彼が、何を感じていたか、と言うことが関係しているのではないだろうか。

 「老眼が進んで、細かいところが見えず」「根気と、集中力が衰え」「もしかすると、手が震えて思いもかけないミスをしたのかもしれない。」

 この、「自分の老いを感じ」「思うようにならない自分の手をじっと眺め」「それでも彫りたいという欲求に老体を鞭打ちながら、掘り続ける自分に」きっと、「哀しさ」ばかりが沸いてきたのではないだろうか?
その「哀しさ」がこの像を支配しているのではないだろうか?

 50歳を越えて、この像を眺めた時、そんな感情が、湧き上がって来た。
何だかミケランジェロが身近に感じられた瞬間だった。

 サンピエトロのピエタは、25歳という若い時に彫られたものだから、「ピュアーさ」「完璧さ」が支配している。 「完璧」「純粋」という言葉がぴったりで、どんな優れた彫刻家でも、この像にノミを入れて彫り直そうなどという考えを持つ者はいないだろう。


 この、若さあふれる像と比べると、最後のピエタは、年齢と共に「抽象論」としての「やさしさ、慈愛を持ったマリア」「寛容、愛を持ったキリスト」・・・・、そこに向かって歩いて来た彫刻家の最終的な到達点と言えるのではないだろうか。
年齢と共に備わって来た「人の為に生きると言う意味での社会性」や、「ものの本質を捕え、普遍性を求める心」・・・。

 自分の考えを押し付けると言うよりも、見る人の心を揺り動かし、自分の彫り出したものの上に、見る人の思いを加られる余裕を彫り残す・・・・。 彫り残した部分を、「見る人の感性に託す」という事だろうか。


 見る人の感性は、一人一人違うから、そこに「ミケランジェロ本人には無い感性をも抱擁した偉大なモノ」が出来上がると考えたのだろうか・・・。

 「最後のピエタ」は、彼の「自分の老いに対する哀しさ」が、ひしひしと伝わって来て、「若さ」「完璧さ」「ピュアーさ」の象徴である「サンピエトロのピエタ」とは、全くの対極を成すけれども、こちらの方も、「ものの本質を捕えた普遍的な抽象性」と言う事から言えば、最高傑作なのだと思う。

 彫刻には感応することの少ない私だが、このピエタには、涙が出そうになった。 「理屈ではない、直に伝わってくるもの」・・・。凄い!の一言に尽きる。
若さやピュアーなものを超える、人生の重さ、深さを基にした、ものの本質を捕えたもの・・・・・、今の私には、最後のピエタの素晴らしさばかりが迫ってくる。

スポレート(Spoleto)のFilippo Lippi       2003年10月

 

 Romaから北東に電車で一時間。静かな町だ。駅についても、駅前には何も無い。
もちろん、バスの発着場はあるし、バールもあるのだけれど、チェントロからは、遥かに離れていて、いったい何処が街中なのか、方向がつかめない。 イタリアで、田舎の町を訪ねる度にこの思いを味わうことになる。

 結局、街中までは、「ずーっと、離れているから・・・・」という事は判ったけれども、さて・・・・。
バスは当分来ないらしいし、歩き出す。たいした地図も無いから、まずは、「3人に聞いて」から、ほぼ、この方向、と、決めて歩き出す。

この、「3人に聞く」というのは、ここイタリアにいる間に学んだ事のひとつで、「一人だけに聞いたとしても、全く当てにならない場合が多い」という事だ。

 

 一人一人、勿論とても親切で、有難いのだが、自分の思い込んでいるのが「真実」という風だから、「ここを出て、左に行く」というのを、日本語式に捕らえたら、全く逆に行くことになったりする。「ここを出て」というのが、「ここを出てから、(右に)その路地を抜けて、それから・・・。」という意味だったりするから!


 それに加えて、イタリアの古い街の道は真っ直ぐではない。これも、方向感覚を狂わせる元になる。北西の方向だ、と頭に描いてから歩き出すが、いつの間にか、道が南に少しずつ曲がっていて、自分の考えている「北西」が、実は「南」で、いつの間にか一周して、元に戻っている、なんてことが、良くあるのだ。

 15分ほどで、川を渡り、どうやら、街は山の上なのだ、ということが、はっきりしてくる。

年をとっているというのは、困ったもので、考えてはいないつもりでも、頭の何処かで「なるべく坂道を登りたくない」と思っているらしく、急な坂道の分かれ目ごとに、人を捕まえては道を聞きただす。
勿論、イタリア人が相手だから、どんなに相手が親切でも、100%信じてはいけないのは、経験上知っているから、これは、正しいのだけれど・・。

 結局、DUOMOに行き着くまでに、町を一周することになった。天辺まで登って、それから、また降りて・・。この年になって、結構、あせらずに旅をするようになって、この間に、インフォメーションで地図を貰い、バールでカップッチーノとコルネを食べ、しているのだが!


 スポレートのDUOMOは、幅の広い階段の上から見下ろすと、広場の奥にひっそりと白く佇んでいる、という風で、なんとも言えず、よい風情だ。少し、大理石というにはやわらかそうな石が白っぽくて、何とも柔らかい感じがする。


 後ろに遥か向こうの岡の緑を引き従えていて、これも長閑さを増している。
この、坂の途中のような位置にあることが、この建物の、大きな特徴かもしれない。 階段を登るのではなくて、降りたところにある。これが、奥まった、落ち着いた趣を生んでいるのだろう。

 ここのLippiのフレスコに関しては、それ程には期待していなかったのだが、これが、想いのほか良いもので、大きさも量も見に行く価値は充分だろう。
修復をされているのは明らかだが、色も鮮やかで彼の力がよく分かる。上部の半円形の部分のブルーは、それだけを観ていたくなるほどに美しい。


 彼の作品の中では、相当に大作で、力の入り方も相当なものだと思う。
この時代の作品の中では、かなり大胆な構図で描かれていて、プラートの「踊るサロメ」を思い出す。
しかし、まずは、色の美しさを一番に感じた作品だった。

 一日に5~6便しか無いというバスを運良く捕まえて、Montefalcoに行く。
このスポレートから、さらに奥に入っていく感じだ。
中学生達が乗ってきて、急にバスの中が賑やかになる。昼には学校が終わるのだった、そう言えば・・。「町に在る中学校に各々の村から通っている」という事だろう。


 アッシジからペルージャに行く途中で同じような風景に出くわしたことがある。
向こうの丘をさっきバスから降りた女子中学生の赤い傘がゆっくり登って行く風景を、今もくっきりと思い出す。 途中の部落を抜ける時には、一方通行の信号をバスの運転手が手押しで押して通る。


 何とものどかだ。丘をいくつも越えてゆく。

 小一時間で、町に着いた。ここも城壁に囲まれた古い町で、バスの発着場は、城壁の外。
「何処から入るんだ???」。・・・これも良くあること。 分かってみればどうということも無いのだが、見上げるような城壁と、全ての道が「急な坂」であることを思い出して貰いたい。「登って、降りて、また登って・・・。」


 これが、ネックになって、「引き返す」事にならぬように、変な気の使い方をしてしまうのだ。中年おばさんとしては!

 さて、城壁の中の「メイン・ストリート」といえる道を登っていく途中で、「おいしそうな看板」を見つける。おいしそうな、と言っても、別に絵が描いてあるわけでもない。ただ、そんな感じがする名前のレストランの看板が有った、というだけの事なのだが。


 このレストランは、坂道を降りかけた直ぐの所に、ひっそりと有ったが、中に入ってみると、ドイツ人観光客が一杯で、コース料理を食べていた。


 私もそれを食べることにして、待つこと10分。まずは、季節のフンギ(きのこ)を使ったパスタと生野菜のサラダ。まあまあいける。季節柄、フンギが美味しい。


 その後に出てきたのは、肉をソテーして、レモンソースをかけたもの。よくローマでも食べることがある料理だったが、この肉の硬さには参った!イノシシかも・・。

「手が疲れる」程で、でも、味は悪くなかったから、最後まで、頑張って食べた!ごちそうさまでした!

 やっと、お腹もくちくなった所で、「Museo Civico di San Francesco」に行ってみる。坂を天辺まで登って、そこから少し、北に降りた所にある。


 ペルジーノ(Pietro  Perugino、1503年)は、晩年の作で、やはり、「通り一遍」の感はぬぐえないが、典型的な明るさを持っているということは言える。
ゴッゾリ(Benozzo Gozzoli,1452年)の方は、Firenzeのメジチ家リッカルディ宮のものなどに比べると、寧ろすっきりしていて、思いが伝わってくるという意味において、私はこちらのほうが好きだ。


 Francescoの生涯を描いているということで、近くのAssisiのジョットと比べてみようではないか、と思って来てみたのだが、来る価値は大いにあると思う。
ここは現在、保存の為か、美術館になっていて、元来の教会としては使われていないようだ。


 フランチェスコ派の町として作られ、発展してきたところで、現在は、本当に人が住んでいるのかと思うほど、ひっそりとしている。

町の中で、バール、美術館、などいくつかの人の集まる場所以外に人の気配が無いというか、多分、お年寄りばかりの町になっているのだろう。


 同じような町なのに、URBINOが新設の大学を取り込んで、人が沢山いるのと、つい、比べてしまった。ただ、どちらが良いのかは、一言では片付けられない問題だ。


 URBINOで出会った、「宮殿と、古いものの美しさ」と、一足外に出た途端に出会う「美しくはない若者たち」。これ無しではやっていけない町の事情が有るのだろうが、あまりに「風情が無い」のを嘆くのは、「年を取った者どものみ」なのだろうか?


 都会にあるとあまり感じない、この「美しくない新しいもの」が、この古くて美しい町の中で「異彩」を放っている、と見るのは、言い過ぎか?でも、これが、イタリアの現実なのだろう、とも、思った。

 

 残念ながら!


 イタリアは小さな国なのに、町から1時間ほど山奥に入っただけで、もう、「別世界」が在る。まるで、時間が止まってしまったような・・。これを保存することは、大事なことだろうが、金銭的にも、物理的にも大変なことだろうと想像する。


 日本では、とても出来ない事かもしれない。何しろ、何処まで行っても、家はたくさん有るし、本当に田舎と呼べるようなところは少なくなっている。

人が多すぎる、といえば、それまでだが、この、「時を越えたものを保存する」ということの大切さを思うが、現実には、どんどん侵食されているのだと思う。ここ、イタリアでも確実にそれは進行中のようだ。


 まあ、しかし、ここでも、美術館に働く人々が若い人たちであったのが、ほっとすることではあった。いろんな所で、年取った人が、こういうものの保存に関する仕事をしているのに出会って、それはそれで良いことだと思うのだけれど、こういう事に、若い人が関わっているのを見ることは、殊更うれしいことだ。


 帰りのバスを待つ、大きくて、人がいないがらんとした広場で、高度が高いから相当に低地と違う寒い風を受けながら、感じたことではあった。