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ユニークであること                          2016年12月

 

 40代を中心にヨーロッパに長く滞在する事になったが、色々な国の絵画を見て歩いているうちに、10代の頃から持っていた疑問が少しずつ解けて行く気がした。

 
 高校生の時、西洋美術館で「ピカソ展」を見た。
 壁一杯に展示されたおびただしい数の「牛の頭部のドローイング」(ゲルニカの為の習作群)に 大きな衝撃を受けた。日本人の絵描きの絵に感じる職人肌の体質ではなくて、多作されたものから 発せられる「アイデンティティーを土台にしたエネルギー」と言う様なものだった。

 芸大時代を含め、色々なタイプの絵描きに会って来たつもりだったけれど、ヨーロッパを歩くうちに、この高校生時代に感じた「ユニークさを持った作品の持つエネルギー」と言う様なものに共感を感じるようになった。
 システィナ礼拝堂のミケランジェロなどの巨大な壁画の持つ圧倒的なエネルギー。
 作品を創り出す時の作業の膨大さ、これを大学時代までは実感していなかったともいえる。
 気付いてみれば、今の私は誰よりも「多作」なのかもしれないと感じているが、そう自覚するようになった頃から、絵描き仲間からも、それを指摘する声を聞けるようになった。
 沢山描く事で、色々試してみる事も可能になり、試行錯誤がしやすくなって行く。
 また、それにつれて自分も変化して行き、表現方法が変わって行くことで、それがその人のユニークさを作っていくのだと思う。
 だから、常に「今が一番良い」「最近良くなった」と言われる事が嬉しい。

 
 ピカソの作品をどれだけ見たことか・・。あらゆるところで。
 自分の子供の為に描いてあげた、小さな紙切れに描かれた絵や、母を思って描いたプライベートな作品群・・。
陶器に描かれたものや、出来たばかりの頃のアクリル絵の具を試しに使って描いた大きな作品。 興味を持った作家の作品のコピーから、さらにそれを発展させた作品群。
大作を作る為の膨大なドローイング・・。
 興味を持ったものを、兎に角たくさん描いて自分のものにして行く事で、新印象派の時代から、立体派、抽象表現主義的なものまで、激動の時代をずっとリードして行った事が伝わって来る。
「何をやっても自分は自分」という自信が根本にあって、表現はどんどん変わって行く。
 ここに、「アイデンティティーを持った表現のエネルギー」を感じた。

 
 イタリアの古い壁画や油彩画などを沢山見たとき、ここでもこういうエネルギーを持った人達の絵が私を揺さぶったが、そこで「多視点・多焦点絵画」(ジガンテ)に出合った。
 宗教的な壁画をいかに信者に見せるか、と言うところから発達した技術だが、それが私を引きつけもしたし、不思議と私の体質とマッチする事にも気付いた。
「空間感」「非現実の世界の中の不思議な現実感」「絵の中に人を引き込む力」といった様なものだろうか。
それ以降、そういうものを目指して試行錯誤して行くうちに、今の作風に行き着いている。
 油彩画に関しては、油絵の具の透明度を生かしたクラシックな技法を用いているし、手描きする事にもこだ
わって来たから、見かけはクラシックに見えるかもしれないけれども、20世紀後半に、新しいとされて中心になってきた、平面化を基本とする「抽象画」とは全く違うもの、とも思っているし、やっと最近になって、そういう事を指摘してくれる人も多くなって来た。

 そうこうしているうちに十分に年齢を重ねたが、人のやったことのないところに向かっているつもりだから、未だ何処に行き着くのか全く分かっていないし、また、ユニークであればある程、他人には理解しがたい事でもあるのだろうけれども、価値観の違う人に何かを伝えられてこそ、アートの意味があるのだろうとも思っている。

                         

                         「浜松市、芸術音楽情報紙 ART’S 56号 掲載」